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屁理屈アネックス

このレースを現地で目撃できたのはオレの誇り。

1999年7月4日:第91回サンクルー大賞 Grand Prix de Saintcloud

NHK BS1『世界の競馬』1999年7月10日放送分。“Grand Prix de Saintcloud”は当時「サンクルー大賞」と「サンクルー大賞典」どちらの呼び名も使われてたけど、エルの出走を機に“Grand Prix”が「大賞」で統一されていったように思う。

※残念ながら代替コンテンツがありません。

度肝を抜かれた2歳秋のデビュー戦を見て「こいつは間違いなく日本で一、二を争う馬になる!」と確信、その日のうちに当時の自分のサイト内に応援コーナーを作り、やがて応援サイトとして独立し、応援を通じてネットでの交流は飛躍的に広がり、関係者との繋がりが生まれ、馬と厩舎の横断幕を作り、正門前で初の徹夜を経験し・・・。初めて馬券を買った1993年以降お気に入りの馬はいっぱい現れたけど、デビューからこれだけ熱意をこめて1頭の馬を追いかけたのはあとにも先にもない。

年が明け、期待通りの快進撃が始まった。ダートで見せた強さを芝でも発揮できるならマイルカップくらい無敗で通過して当然、奴らと戦う前に足踏みされたら困るってもんだ。秋が訪れ13万人を吞み込んだ“伝説のG2”で迎えた3頭の勝負はあっさり決着、完敗だった。エル基地のオレも見とれたこのときのウイニングラン(毎日王冠はG2だからな)はナカノコールやオグリコールに匹敵する名シーンだろう。その稀代の快速馬との出会いもまた糧となり堂々たる競馬でジャパンカップを圧勝、旧4歳にして日本馬の頂点に立った。1年前に抱いた確信が現実のものとなっただけでも十分おとぎ話みたいな出来過ぎの活躍なのだが、道はさらに世界へと続いていた。想定を超える展開にオレもまたエルを追い、海を超えはるかおフランスまで応援に向かったのだ。

海外競馬観戦を楽しむファンはほんの一握りで日本人は100人もいなかったけど、現地の客や関係者を含めてもせいぜい1000人程度の入り。加えてサンクルー競馬場は観客エリアが狭いもんだから適当にうろついてるだけで関係者に出くわす。おかげで二ノ宮師や渡邉オーナーと直接ご挨拶できたし、ほかにも専門紙の記者さんからいろいろ情報教えてもらえたり、高橋直子(現・谷川直子)女史から折れた前歯のこと突っ込まれたり、現地ファンと片言で最強馬論争おっ始めたり。今思えば尋常じゃないわ、あの他人との距離の近さは。

そして俺の見込んだ馬は日本一どころか世界一の古馬にまでなっちゃったわけですよ。ゴール板の前でカブリツキで観戦してたからその瞬間・・・極論すると日本競馬が大きなターニングポイントを迎え新たなステージに進んだ瞬間・・・を誰よりも間近で味わっちゃったわけですよ。

そんなわけで、ゴール直後の14分11秒くらいから、正気を失い歓喜に狂うオレの姿がきっちり映ってるんだがよく覚えてない(感情が極限まで昂ぶるとほんとに意識が飛ぶことを知った)。この勝利がどんな意味を持つのかあの場にいた日本人はみんな理解してたし、オレのバカ騒ぎが火をつけたようであたりは見知らぬ人どうし抱き合ったり握手したり、しまいには現地のフランス人まで祝福の輪に入ってきた。喜びをかみ締めながらも「二度とない」「これより上はない」と確信してた。

この記憶は宝。1998年のジャパンカップで「マイラーという見方の強かった距離経験1800mまでの3歳馬」が「2400mの国際G1を当時の最大着差で圧勝」した衝撃も、1999年のサンクルー大賞で「フルボッコにされた記憶しかない欧州の聖域と呼ばれた芝2400mのG1」を「日本人未踏の競馬場で前年の凱旋門賞馬を含む実績馬を相手に61kg背負って楽勝」した興奮も、最終目標の凱旋門賞も「ペネトロネータ5.1というレース史上最悪のコンディションの中、抜群のスタートから堂々の逃げ」で「3着に6馬身、4着とは11馬身という圧倒的な差をつけながら栄光まであと半馬身届かなかった」悔しさも「ゴール後に現地の観客から贈られた2着馬に対する惜しみない賞賛の拍手」も、オレにはもったいない至極の経験だった。

まだやれる、対決を見たい、そんな思いはオレにだって当然あったよ。でもエルがここまでの存在になったのはオーナーのビジョンのたまものなんだよ。そのオーナーがここで終わりにしたいといってるんだ、それがベストに決まってるじゃないか。JC前日の夜、門泊中のオレらのもとに佐々木助手と根来厩務員がわざわざやってきて、「引退式終わったらすぐ牧場に戻っちゃうので今日しかない」とエルの鬣を手渡してくれた。オレが独り占めにするのは恐れ多すぎたのでサイトを通じて、あるいは開門ダッシュを通じて知り合えた人にガンガン配ったらもうあと10本くらいしか残ってないんだから困ったもんだよ。ま、なくなってもいいんだけどね。

翌日、例年になく外国馬を身近に感じた人は多かったに違いない。それが誰のおかげか、みんなこのときはわかってたんだけどねえ・・・。凱旋門賞で好勝負する馬が次々に現れて、以前とは違う意味で現実感をなくしちゃってるファンもけっこう多いけど、凱旋門賞2着が偉いんじゃないからね。

エルコンドルパサーと出会えたのは俺の人生で何よりも幸運な出来事で、エルを追いかけた2年間は間違いなく人生で一番幸せな時間だった。エルの死はあまりにも突然で早すぎたけど、子供たちの活躍を見守るという新たな喜びを残してくれた。でも子どもは子ども。もしオレの中でエルを超える馬が現れるとしたらそれはたぶん産駒じゃないし、エルより強い馬でもない。エルの走りを通じ常に感じていたチーム・エルコンドルパサーのスピリット、オレが目指すべきはたぶんそっちなんだよ。

だからオレはがむしゃらに働いた。エルっ仔も含め一口に手を出さなかったのは目指すものがそこにはなかったからで、クラブではなく1人の馬主になりたかった。馬主になって、彼らと同じ地平に立って、同じ景色を眺めて、そこで至高の2年間を振り返りつつ話をしたい、引退式の答え合わせをしたいと本気で思っていた。いろいろあって頓挫したけどさ。ま、そこまで実現したらむしろ反動が怖いわな。引退後しばらくしてオーナーから会食に招待された。緊張のあまりそのとき何を話したのかほとんど記憶にないけど、応援サイトのドメインにelcondorpasa.comを使う許可をもらったのだけは葉覚えてる。同席した横断幕仲間は、命日に欠かさずお花を贈っている。

最後の現役産駒だったトウカイトリックがターフを去るのを待っていたかのような顕彰馬選出、それに安心して気が緩んだのかといいたくもなるトリックの死、ブリーズアップセールに登場したメモリーズオブユーの2012、産駒のデビューシーズンを迎えたヴァーミリアンと交替するようなソングオブウインドの廃用。まったく想定もしていなかったルースリンド産駒の活躍、想像よりさらに厳しい船出のサクラオリオン産駒。すべて偶然のようであり、必然のようであり、何かの幕が下りたような気持ちと別の何かが始まっている感覚。何をいってるかわからねーと思うが俺も何をいいたいのかさっぱりわからねえ。頭がおかしくなりそうだ。

1頭の馬を全力で応援するのは大変なエネルギーが要るしそれが充実したものであるほど二度目はない。だからオレの競馬ライフは1999年でいったん終了している。2003年から新たなフェイズに入り2014年で再び大きな区切りを迎えた。この先はどんなフェイズになるのか。

産駒

産駒の応援はするけど横断幕は作らないと決めていた。それはたぶんオレの役目じゃない。エルコン絡みで再び横断幕を出すとしたら佐々木助手が独立した場合くらいだったけどそれもなさそう。ただしジュニアが競馬学校に入る可能性はある(年齢的にそろそろじゃないか)。そのときは、当然ゼファーポジション狙いますよ。

中央未勝利で船橋に移籍した初年度産駒ルースリンドは矢野厩舎と故・佐藤隆騎手によってじっくりと鍛え上げられ、やがてヴァーミリアンとともに交流重賞を賑わせる存在にまで至った。中央のエリートと中央でお払い箱となった落ちこぼれ。異なる道を歩んだ2頭が同じ舞台で活躍するんだから競馬は面白い。種牡馬入りしたときは何の冗談かと驚いたけど数少ない産駒がデビューしてからまた驚かされた。まさか南関クラシックの主役を張るとはね。

早くから頭角を現しエル基地の期待を一身に背負うことになったヴァーミリアンの競走生活は歓喜と失望の繰り返しだった。クラシックはディープインパクトと対決どころか悪夢のような大敗続きでダービー出走を断念、矛先を変えたダートで再び天下獲りを目指せば鉄板のはずの名古屋グランプリが雪で流れたり東海ステークスが虫歯でゲッソリ体重落としたり、頂点に辿りついてからも2年連続で参戦したドバイで勝ち馬に大差をつけられ、前人未到のG1格10勝も不死鳥のごとく蘇った宿敵カネヒキリが立ち塞がり一度も先着できないまま引退を迎えた。それでもエルっ仔のエースは疑う余地なくヴァーミリアンだ。異論は認めない。初年度産駒がいまひとつの結果でスピードやキレといった現代競馬必須の能力を欠いているのでは・・・そんな不安をふっ飛ばし「これはモノが違う」とエル基地の誰もが確信できる走りを見せてくれたあのデビューの日から、ヴァーは不動のエースなのだ。

古馬になってからの平均出走距離がとんでもないことになってるわ※1、同じレースで掲示板の全着順を経験それも二度あるわ※2、3000m級競走の主要四場制覇を達成するわ※3、長距離路線の重鎮トウカイトリックは個性派として認知度こそ高かったものの、G1だと伏兵どまりで現役時に紙面で大きく取り上げられたり各種ファン投票の上位にくるようなこともなかった。乗馬の死亡をアナウンスしたりG1未勝利の馬に顕花台を用意するのは異例の計らいで、気持ちを汲んでくれたJRA、顕花台に並んだ数え切れないほどのファン、天皇賞の出走馬紹介で「今日はもう一頭紹介させてください」と付け加えた岡安アナ。いなくなってはじめて「こんなにも愛されていたのか」と驚かされ涙がどうにも止まらなかった。

内村氏の所有するエルコンドルパサー産駒は3頭いたけど、6歳秋にオープン入りを果たした遅咲きの牝馬トウカイルナは2009年の小倉日経オープンで、6歳春に障害転向し現在でも中山3210mのレコードに名を残すトウカイポリシーは2010年の中山大障害で、レース中に故障を生じ予後不良となってしまった。せめてトリックだけでも無事引退してほしかったし誘導馬に決まったと聞いて心底ほっとしたのにまさかと。嘘だろと。

産駒にとって最後のクラシックとなった2006年の菊花賞(4頭出し)で4角最後方からまさに疾風のごとくレコードで駆け抜けたソングオブウインド。香港遠征の最中から故障の噂があったソングは「使命は果たした」とばかりに短い現役を終えた。未勝利から5連勝という前代未聞の離れ業でJCダートを制覇したアロンダイトは、菊花賞当日の銀蹄ステークスでエルコンドルパサー産駒の東西同日メイン制覇となる勝利を飾っていた。JCDウィナーとなって以降は、その巨漢からくる慢性的な脚部不安と猛者がひしめくダート重賞戦線の高い敷居の板ばさみで減量と出走が目標のような状況が続き、最大にして唯一のチャンスだったJCダートも休養の間に舞台が変わり、復帰したところで活躍の場はどこにもなかった。どちらも一瞬の煌きだったけど、意地を見せたかのようなラストクロップの2頭に対しエル基地だけでなく98クラシック世代のファンがみなその勝利を祝ってくれたのは忘れられない。

産駒の初出走を飾ったサクセスアルデンテとウインバリエンテ、初勝利を挙げたカーニバルソング、初のG1出走馬トラッドスキーム、芝にダートに障害に適性を示した兄ブラックコンドルと名前の由来「すばやい動きをするオレンジ」ばかり基地の間で先行してたけど終わってみれば牝馬唯一の重賞勝ち馬になった妹ラピッドオレンジ、2歳芝1700mの(たぶん)永久不滅レコードを叩き出したコンドルクエスト、エルっ仔の白すぎにして京都の守り神ゴッドスマイルユー(実ゼッケン持ってる)、デビュー戦をキレキレの末脚で勝ちヴァーとともにエル基地を安堵させたアドマイヤメガミ、ここしかないというピンポイントで覚醒しエルっ仔によるオレG1制覇(ねぎしステークス優勝)という奇跡を成し遂げた初年度最強馬ビッググラスを筆頭に毎年準オープンの津軽海峡夏景色ビッグクラウン、暮れになると厩舎リーディングの都合で連闘だの三連闘に駆り出されしかも勝っちゃう師走男ビッグジェムの初年度トリオ(馬主は違うけどな)、重賞で初めて馬券に絡んだ自慢の末脚はいかにも東京巧者を匂わせていたが厩舎に恵まれなかったシルクタイガー、フランスデビューというドリームプランも調教中の骨折でデビュー前に潰えたアイラブパリス、帯同馬という斜め上のルートで10月のロンシャンを走りその後も高知で戦績を積み重ね91戦20勝の産駒最多勝を誇るファンドリコンドル(後にも先にも存在しない、ロンシャンと福山で重賞を走った唯一の馬)、クリスタルカップで「ヨシトミシネー」を全国区に広め「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ」でおなじみリアルインパクトの兄アイルラヴァゲイン、そのアイルと皐月の前座でワンツー決めたとき現地にいながら馬券買ってなかったのが未だに悔やまれるカルナバリート、偉大なるマモノ一族の血を後世に伝えるアラクレ娘ラフィンムード&ラフィントレイル、不振にあった牝馬で数少ないオープンまで出世した良血ダンスオールナイト、走りよりも繁殖馬としての実績を重ね続けるクリソプレーズ(というかエルxキャサリーンパーの3頭)、トリックの影で隠れ目立たないステイヤーズステークスの覇者エアジパング、まさかの種牡馬入りを決めた洋芝巧者サクラオリオン、日本競馬史上2000mで2分の壁を破った唯一の2歳馬ナイトレセプション、脅威の帝王賞4頭出し(勝ったのはヴァー)に一役買ったスズノマグマ、順調ならアロンダイト級と信じていたウインビー、マイル路線で大きいところを狙えそうな器と思った共同通信杯2着の直後に世を去ったダイワアプセット、トリックに継いで長い間現役だったオープンセサミ、21戦目の初勝利からなんのかんの長い現役で終わってみれば通算179戦14勝と立派な数字を残したバンブージーコ様、ダービー出走の栄誉とソングの勝った菊花賞で4頭出しの一角を占めトリックを除くと中央最後の勝利をあげたアペリティフ、そのアペリティフとともにダービー出走を果たしたパッシングマーク。なぜか持ち込み扱いのエイシンラージヒル(父El Condor Pasaなのだ)。ぜんぜん足りない。

馬券的には裏切られることのほうが多かったけど、オヤジを追いかけてた頃とはまた別の楽しさがあった。みんなありがとう。この記憶も宝物だ。

トウカイトリック追記

  1. 全63戦のうち3000m級競走への出走が35回で、2・3歳の平均走破距離は約1997mと平凡だが4歳以降の8年は2971m(生涯走破平均で2779m)。2400m以下のレースに出走したのは2008年の京都記念が最後で翌2009年以降は平均が3000mを超え、ステイヤーズステークスを制した10歳時(2012年)に至っては6戦して3116mという冗談みたいなことになっている。
  2. 阪神大賞典とステイヤーズステークス。
  3. ダイヤモンドステークス(東京)、ステイヤーズステークス(中山)、阪神大賞典(阪神)、万葉ステークス(京都)。ただし「3000m級の平地競走が行われる競馬場すべてに勝利経験がある」とするのは間違い。忘れてる人も多い豪州遠征でフレミントンのメルボルンカップに出走している(12着)。

俺の競馬暦でこれほど長距離に特化した馬は初めてだったから、ローテーション3周目くらいの頃からトリックの異能が過去には存在したのかどうか気になりだしグレード制導入以前まで遡って調べてたけど、少なくとも日本の平地重賞勝ち馬に絞った範囲では平均出走距離が3000mどころか2500mを超える馬すら見当たらなかった。おそらくギネス級のレアケースで、ここまでくるとつくづくもったいないのが菊花賞。トライアルでの優先権こそ獲れなかったけど戦う前からみんなディープに白旗ムードで、本番はフルゲート割れの800万でも抽選なしで出走できちゃう状況だった。ああそれなのに、1400万のトリックは登録すらされてなかった。ファンの間で「トウカイトリックのスタミナは無尽蔵」が定着したのは翌年の阪神大賞典からだし当時管理してた松元師を責めようなんてつもりはさらさらないけど、せめて「外枠のさらに外でいい、賞金もいらない、ディープの邪魔は絶対にしないから菊花賞に出走させてくれ!」って内容に上書きしたくなる、そんなお話ってわけさ。

実験

VIDEO要素による埋め込み再生のテスト。

  • 1999年9月12日:第45回フォア賞
  • 1999年10月5日:第78回凱旋門賞

フォア賞 Prix Foy

1955年より施行。当初は Prix Henry Foy で Paris Turf や PMU など現在でもこの表記が用いられている。フランスギャロの前身であるスポーツ奨励協会(Société Sportive d’Encouragement)の会長を務めたアンリ・フォア男爵の功績を称え創設された。平たくいえば安田記念のようなものである。

同距離&同コースで本番まで中二週と申し分ない施行条件でステップにする有力馬も多く、同日に行われる3歳馬限定のニエル賞や牝馬限定のベルメイユ賞とあわせて凱旋門賞を占う重要な位置づけにあるが、凱旋門トライアル( Arc Trial )という優勝馬どころか1999年のファンタスティックを最後に出走馬すら送り込んでいないコースも距離も違う本番とはまるで無縁の競走がちゃんとイギリスに存在するので、フォア賞を“凱旋門トライアル”と説明するのは適切ではない。

日本馬の出走も多いため海外のG2ではもっとも有名なレースと思われる(かつては香港カップだったがG1に昇格)。例年フォア賞くらいまでは好天気が続くがここから雨が多くなる。

凱旋門賞 Prix de l'Arc Trioemphe


日本のッ!!凱旋門信仰はッ!!世界一ィィィィッ!!!!

むしろ勝った後が怖い。

参考

エルコンドルパサー関連記事訳
フランス住まいの日本人による貴重なサンクルー大賞や凱旋門賞前後のParis Turfの和訳。
さようならエルコンドルパサー
とあるスポーツ新聞記者の追悼記事。

吉沢譲治氏のことば。

キミはスピードもスタミナも、勝負根性も底力も、仕上がりも成長力も何もかもが素晴らしかった。

走るたびに新たな才能を披露し、その枯渇というものがなかった。

非の打ちどころのない、万能の名馬だった。

脚注

ゼファーポジション
府中でいえばパドック北側フェンスの西寄り、関係者にいちばん近い最優良ポジション。ヤマニンゼファー産駒や母ゼファーっ仔が出走する日は必ずそこに「ゼファー魂」の横断幕が張られている。2015年7月現在、中央の現役産駒はヤマニンアルシェを残すのみで母父ゼファーも一握りとあって、近年は事実上ノースヒルズポジションと化している。
誘導馬
引退後の進路の中でも採用枠も採用基準もないに等しい最難関のエリート(芦毛は若干有利)。こと牡馬は下手に繁殖入りするよりよっぽど安泰。種牡馬なんて不人気だといつ廃用なるかわからんし、その後は行方不明になるか、気が狂うまでアテ馬をやるか、牧場に引き取られ功労馬として余生を過ごせる保証なんてどこにもない。誘導馬はなんてったって職場が福利厚生バッチリの競馬場で原則週休5日!それも開催期間だけ!
日本競馬の公式資料
JRAシステムサービスよりオンラインで提供される公式記録(いわゆるJRA-VANのデータ)は1984年のグレード制導入以降のもので、1983年以前の記録は整備されておらず、ネットで入手できるのは公式・非公式を問わず八大競走を含む重賞とその優勝馬を中心とする限定的な範囲に留まる。紙媒体の場合「競馬四季報」の創刊は1971年、「週刊競馬ブック」が1962年。現在発行されている競馬雑誌の中で最も古くから存在する「優駿」は1941年創刊でJRAよりも長い歴史を持つ。廃刊を含めると確認されているものは「競馬雑誌」と「馬匹世界」がそれぞれ1907年創刊。
日本における近代競馬の開始は横浜レースクラブが誕生した1862年とされている(2012年に近代競馬150年を記念するイベントが各地で行われた)。1867年には常設の競馬場による本格的な開催が横浜競馬場(a.k.a.根岸競馬場)で始まったが、現在のレース体系(競馬番組)や制度とかけ離れていたり関連性が弱いと比較が困難でそもそも意味がなかったりする。これを踏まえると現代競馬のはじまりは1905年の帝室御賞典(The Emperor's Cup, 天皇賞の前身)で、現在の年二回開催となった天皇賞のカウントスタートレース、1937年秋の帝室御賞典を実質の基点とするの妥当なところか。
第54回阪神大賞典
勝ったディープにはあっさり4角で捕まり馬体を並ばせてすらもらえなかったけど(あれはもう馬の形をした別の何かだから比べてもしょうがない)、直線に入ってあっさり後続に捕まるかと思いきやバテそうでバテない二枚腰の粘りをみせ、菊花賞馬デルタブルース、家をタテヤマ、後のライバル・アイポッパー、世が世なら二冠馬のチャクラ、凱旋門制覇にエル基地も怯える切れ切れインティライミというなんとも微妙なレベルの格上の追撃を完封し2着に健闘。3着のデルタブルースとは4馬身差で上がり3ハロンもディープに次ぐものだった。
そんな表面的な成績や記録の数字とは別に、1枠から押してハナを主張し先頭に立ってからも徐々にリードを広げる大逃げという、その後のトリックからは想像もつかない積極的なレース運びが強い印象を残し、さらに騎乗した芹沢がレース後「良く頑張りましたが、疲れました。3000m追いっぱなしでした。あっという間に交わされました。相手強すぎます」とこれまた印象的なコメントを残したのが決定打となりエル基地の間に「トウカイトリックのスタミナは無尽蔵」という認識が定着、「足りないのはヤネのスタミナ」「2500mは短距離」「助走に3000m必要」「アル杯という名の公開調教」「南半球ローテ」などの格言もこのレース以降に生まれた。個人的には「脅威の低燃費」で落ち着いた。